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imimiのリトリーバル日記

imimiのリトリーバル日記

道路に落ちていた小枝

2009.7.11 の記事から

どこのフォーカスレベルかわからないんですけど、映像のリアルさから言って、フォーカス27かもしれません(ガイドからは何も告げられませんでした)。

どこかの住宅街の一角、もしくは駐車場のようなところです。

ちょっと離れたところにシスターとシュタイナーさんがいて、私が誰かと向かい合っているのを黙って見つめています。

目の前の人物をよく見てみると、マザーテレサでした。



でも、今までこんなリアルに非物質界でマザーテレサを見たことがありませんでしたし(いつもは非常に高いフォーカスレベルで会っていたため、ほとんどエネルギー体としてしか把握できていませんでしたから)、

写真でみるような晩年のマザーテレサの姿をしていたことや、最近あったいろいろな出来事(それが何かはたぶんお分かりいただけるかと思います)のために、私はいつも以上に疑り深くなっていました。



で、その人物に本当にマザーテレサかどうか確かめる方法がないかと聞いてみると、頭でなく、ハートで感じ取るようにしなさいといったようなことを言われました。

うーん、そう言われてもね~という感じでしたけど。



たぶん、この時だったと思うのですが、目の前にいるマザーテレサらしき人物(私はこの人物がマザーテレサだったと思っていますが、あえてこういう表現をとりたいと思います。今後マザーテレサという表現が出てきたら、そのようにお考えください。)はこんな話を私にし始めました。



私に道路に落ちていた小枝を見せてきて、「あなたは人々に、この小枝の存在を気付かせてあげてください。」と言いました。

マザーテレサから聞いたところでは、

小枝は、外見はなんの変哲もなく、見た目もぱっとしません。

人々はその存在にすら気付かないことが多いのです。

でも、小枝にも(切り離される前は)生命力が宿っているのです。

ちゃんと意識が宿っていて、何物にも代えがたい価値をそれ自体が持っているのです。

そのことを、あなたは人々に伝えてくれませんか、

こういった主旨の印象を私に思念で投げかけてきました。



もちろん、マザーテレサは、例え話をしているのであって(もちろんわかりでしょうけど)、要するに、いわゆる愛の話をマザーテレサにしかできない切り口で話していたのかもしれません。

愛とは身近なところにあって、それ自体気付かないほどであっていわば空気のような存在である。

そのことを、あなたは周りの人に気づかせてあげてほしい、こういうことが言いたかったのかもしれません。

今まで以上に抽象的な話、それもほとんどロート(思念のかたまり)として印象がやってきたので、だいたい大まかな感じでしかご説明できませんが。



その後、何か話したのですが、それでも私はどこか本物のマザーテレサかどうか疑いが晴れなくて、私はその人物と別れ、計画する知性に行き、そこからガイドの力を借りて愛の源の本体へと向かいました。



愛の源の本体に入ったとたん、二人の高次の存在を感じるとともに、何かに促されるようにマザーテレサをここに呼ぶようにと言われ、マザーテレサを呼んでみました。

すると、すぐにマザーテレサの存在が感じられ(なぜかはわかりませんが、確かにマザーテレサだと感じられました)、強烈なPULを私に投げかけてきました。

以前感じたことのある、マザーテレサのPULのように私には感じられました。そのうち、クリックアウトしてしまいました。



今回、私はブログでマザーテレサの言葉を紹介しただけだったんですが、そのことがマザーテレサにしたらとてもうれしかったみたいです。

私にこう言ってきましたから。

「今までへミシンク関係者でこういったこと(マザーテレサの言葉を紹介すること)をしてくれたのは、あなた一人ですよ。」と。



マザーテレサの言葉をブログで紹介するというたったそれだけのことをしただけなんですけど、そのお返しに、すごい量のPULを私に与えてくれました。

私はまだ、マザーから見たら、与えられる存在なのでしょうね。

ブログでマザーの言葉を紹介するというほんのわずかな行為が、マザーにしたらよほどうれしかった。

このことが、逆に、人は、愛されるよりもまずは愛する存在に、というマザーのメッセージが込められているように私には思えました。



皆さん、覚えておられるでしょうか、前回ご紹介したマザーテレサの墓碑に、書かれていた言葉を。

私なりの英訳を踏まえて改めてご紹介したいと思います。

墓碑にはこのように書かれてありました。


LOVE ONE ANOTHER AS I LOVED YOU"(ST.JOHN 15:12)
MOTHER M.TERESA M.C
26.8.1910-5.9.1997
OUR DEARLY BELOVED MOTHER

ざっと私なりの解釈をしますと、1行目は、おそらくヨハネの言葉でしょうか、「私(たぶんイエスのことだと思います)があなたを愛するように、あなたも他の人を愛しなさい。」と書かれています。

その後、2行目にマザーテレサの名前、そして3行目にマザーテレサの生まれた日と亡くなった日が書かれてあり、4行目にこう書かれてあります。

「私達の親愛なる愛されたマザー」、つまり、私達にとって親しみ深く、愛されるマザーだった、こう書かれているようです。

これを読んだ時、あー、マザーテレサは、ブログトップページでご紹介した聖フランチェスコの平和への祈りをそのまま貫いた人だったんだなと思いました。

マザーいわく、愛とは与えられるものというより、自らが与えるものである。

マザーはこれを生涯をかけて実践し、自ら他の人に限りない愛を与え続けたからこそ、逆に多くの人に愛される存在だったのだなと。



余談ですが、マザーテレサは、聖フランチェスコの生き方に影響されて修道女の道を選んだのだとか。

先日お話ししたリジューのテレーズの話といい、聖フランチェスコの祈りの言葉といい、私はただなんとなく選んだだけだったんですけど、全部マザーテレサと実はリンクしていたというすごい展開になってきました。

そして、新たに選んだブログの背景は、マザーテレサが聖母マリアの青と清潔を意味する白に、これまた偶然になってしまった・・・これを偶然とみるか必然とみるかはさておき、私個人にとっては、何かしらの深い縁をマザーには感じています。

それはしばしば非物質的に会うということもあるのでしょうけど、単にそれだけではない気がします。



最近、いろいろな出来事があり、それで私自身の心の中で何かが吹っ切れるものがありました。

しかし同時に、へミシンク中の体験に対してはますます疑り深くなりつつありました。

というか、物事を中立的にみようとするがあまり、疑り深くなってしまうと言った方がいいんかもしれません。

もともとは私はそれを強く意識してこのブログを始めたんです。

それは第1回目のブログに一番強く表れているように思います。

しかし、日々へミシンクを続けていく中で、はじめの方向性から知らぬ間に遠ざかっていきつつあった。

というか、最近のあまりのすごい展開に、冷静に検証しようにも無理な状況になりつつあった。

でも、それでも、そういった姿勢はやはり大切だなと改めて思い直しました。






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